昭和46年09月19日  特別奉修委員



 いろいろお話さして頂いて、どこをどう言う風に皆さんが分かられただろうか、お話をさして頂いた後に、今日はここ、昨日はここんところに焦点を置いて話したんですよ、ここんところと、ここんところと例えば、まあ(?)にね、本当もう話の、ここんところを分かって欲しいと思うてここんところに力を入れて話したんですよと言う様な事をお話の済んだ後で、あのお説台の前でそこんところを締めくくろうかと思うて、こうあの神様にお願いさして頂きましたら、その必要ないように頂くんですよね。
 分かっただけでいいと言う訳なんです。確かめず。そしてあとから頂かして頂いたんですけれども、分かっていなかったところをね、ここのところを私は強調して、私はここが分かったり、「はあ、これで分かりました。初めは分かりませんでした」と言う。もうそれは手後れだとおっしゃるね。その時、分かっておるだけでね。ですから、いかにね、本当にあの、一生懸命に頂かなければならんかちゅう事が分かるですね。だからもうその時に、「はあっ」とここを頂かなければならない。
 まあこれがそのくらいな事ならいいけども、それが例えば、命に関わるとか、と言った様な事の場合などはね、大変な事でしょう。まあ例えて言うと、(?)になる病人があると、本当にもう、難しいような病人のお願いをさしてもらんですけん、こちらもやはり一心の真を捧げて、やはり祈らなきゃならん訳ですね。願わなきゃならん。ところがあの、「すいませんけれどもちょっと、ちょっと病人から外せませんから」と言うて、ならあ電話でお願いをすると致しましょうか。
  けどそれはそれだけのものですね。やはり「ちょっとお参りしますけんお願いをします」と誰かにお願いしてでも参って来ると言う事がね、それが真を尽くした事になる。それがね、もう光に、光になるかならんかというとこがもう、これはもう死ぬか生きるかちゅうか、そげん大事な事なんですね。例えてその事ともう一つ頂くのに、「光」という字をね、こうこう頂く。「光」のこうちょうど人間が走っとるような感じになりますよね、あの「光」という字は。
 これがもう足でこうこう走ってる訳なんです。例えばこれがいっちょ欠いてご覧なさい。もう「光」という字にはならんですから。もう本当にぎりぎりのおかげを受けならん時なんかはもう絶対、もう一にも押し二にも押し、三にも押していかにゃ、丁度あの幹三郎のとこのあれで行かなければ、おかげにならんです。光に見してやろうと起こし示しておっても、だから残るがあのあなたそげな事ではおかげになりませんよと言うと、ああそうですかと言いながら立たんじゃもう、その後の祭りですそれじゃあ。
  いかにこの事がちゃんと日頃知っておかなければならんか、分かっとかなければならんかと。「もうこういう場合ですけん、すいませんけど電話で」と、ならもうそれが本当に電話で、それはいいです。けれどもね、ちょっとと言いながら、あの自分がその気になれば出来る事をおろそかにしたんでは、言わば足をね進めなかった。進めなかったら「光」は「光」にもならない。なんぼ信心ちゃあない生命でも頂くと思うてならん事がなるおかげを頂くほどしの事ですけれどもね。
 そのくらいな私は、あのこうきめ細かい信心しなければ駄目だと思う。私はその青年教師からそれを頂いてから、本当だなあと思うですね、例えばあの今度、この信者の集会の時、文男先生が、その説明をしたと言う事ですけれども、例えば自動車事故に遭った時に、あのおかげ頂いた時にはもうそれがおかげになっとるね。けれどもどうしてこげなこつになったじゃろうかと思うたらもう、例えば5分後10分後におかげと思うたっちゃもう取り返しはつかん。
 いわゆる信心は一本勝負と言われるのはここんところです。ですからいかに日頃ね、おかげ頂いたと言えるものを頂いとかなければならないか。日頃何、いかに信心というものは実意丁寧、いや一にも二にも三にもおしで、いかなければおかげを頂けんもんかと言う事が分かるでしょうが。けれどもそうさしてもらえばおかげが頂けるのなら、せにゃおられんじゃないですか、実を言うたらね。信心はそこ。そこんところをやはり、日頃稽古しとかなきゃできんですね。
   どうぞ。